エピソード5 医法政の第二ラウンド~ライシャワー事件
彡(゚)(゚)「1950年代までにシステムは整ったんや。しかし、システムは道具にすぎん」
彡(゚)(゚)「使い方次第で何が起こるか分からんやで。今回は使い方を巡る二つの事件や」
彡(^)(^)「ちなみに医法政(違法性)と掛けとるんやで?気づいて草生えたか?」
転び公妨(ころびこうぼう)
警察官などの捜査官が被疑者に公務執行妨害罪(公妨)や傷害罪などを巧みに適用して現行犯逮捕する行為。「当たり公妨」とも呼ばれる[1]。別件逮捕の口実とされることが多い。名称の由来は、警察官が被疑者に突き飛ばされたふりをし、自ら転倒または体当たりして対象者に公務執行妨害罪を適用し逮捕することからきている。主に公安警察が用い、不当逮捕・冤罪の温床になっていると法曹関係者からも批判されている[
(wiki)
彡()()「生えんかったか。続けるで」
1960年、精神科を増やす試みがひと段落する一方で世間は安保に揺れていた…
そんな中で1960年 刑法学会
「ライシャワー事件」
1964年(昭和39年)3月にアメリカ大使館門前で当時19歳の統合失調症患者にナイフで大腿を刺され重傷を負った。この時に輸血を受け「これで私の体の中に日本人の血が流れることになりました」と発言し多くの日本人から賞賛を浴びたが、この輸血が元で肝炎に罹る[5]。その後、これがきっかけになり売血問題がクローズアップされ、その後日本において輸血用血液は献血により調達されることになる。この事件は「ライシャワー事件」と呼ばれ、精神衛生法改正や輸血用血液の売血廃止など、日本の医療制度に大きな影響を与えた。
その後3ヶ月の入院を経て回復し退院し(その後ハワイ州ホノルルの海軍の病院に検査のために再入院した)一時は辞任を考えたものの、「今退任し帰国すれば日本人は事件の責任を感じてしまうだろう」と考え留任することを決め、その後も駐日大使として活躍した。
1990年(平成2年)には、上記の襲撃事件とその後の輸血以降に持病となった肝炎が悪化し、延命治療を拒否し79年の生涯に自らの意思で幕を下ろした。遺灰は、「日本とアメリカの架け橋になりたい」との遺言により太平洋に撒かれた。(wiki)
(●゚◇゚●)「保安処分について諸外国の事例を調べた結果を報告する」
(●゚◇゚●)「保安処分とは『犯罪を起こす可能性がある人物の身柄を拘束』することだ」
(●゚◇゚●)「日本は犯罪を起こした後でなければ被疑者を拘束できない。しかし、起こしてからでは遅いこともある」
(●゚◇゚●)「犯罪を起こす恐れがある…そうだな、精神病患者は…」